おいしそうだったが食べている暇はなかった。
残念。駅でもプラットフォームでは食べたことはあるけれど。北九州は映画を観たりするのに行く機会は結構あるので、いつかここでも食べたいものである。西日本ではなかなか僕好みの蕎麦を食べさせてくれる所は少ないけれど、うどんは大体おいしいところが多い気がする。
●
何度か同じようなことを語っているけれど、僕の嗜好でしかないけれど、写真に手を入れることが好みではない。まず、第一にめんどくさい。僕は偶然とカメラとフィルムと現像所に頼り切り怠惰に写真を撮りたいのであって、努力や資材を準備して成し遂げたいというほどの趣味ではない。もちろん、他者がどんなことをしようと僕はまったく気にはしないけれど、少なくとも僕はやりたくはない。また、一般的に加工した写真はあまり好きではない。写真のできとは無関係に僕の嗜好の問題として。たとえば、ホタルが寂しいからといって多重で撮ったホタルを重ねるとかするくらいだったら、絵でも描けばいいのにとは思う。もちろん、それは僕の嗜好、趣味の方向性の話でしかないことは十分に承知してはいるけれど。
何のために写真を撮っているかというと、自己満足のためであり、そこに他者の評価は本来いらない。もちろん、褒められれば嬉しいけれど、僕の嗜好とは異なった写真が褒められたとしても、まったく嬉しくないわけではないけれど(世界は驚きと多様性に満ちていることを何度目か再確認する機会でもある)、正直、へえという気持ちの方が強い。僕は、フィルムカメラで写真を撮ること自体を楽しんでいるし、その結果としての写真が、偶然、僕の好みに仕上がっていれば嬉しいことは確かだ。しかし、それは世界中の誰も評価しなかったとしても、僕が嬉しいと思えば僕の中ではもう十分なのでもある。
もちろん、他者に評価されて嬉しくないということではない。だが、それよりも自分の中でいいと思える写真を撮ることができる方がよほど重要だ。僕の求めていることは自己満足であり、それゆえにとても難しい。なぜなら、僕はその時の情景をよく覚えているからであり、偶然に頼った写真しか撮らない僕であれば、それが僕の力ではなく、カメラとレンズとフィルムと現像所の力量に過ぎないことを良く知っているからだ。僕がSNSやブログで写真を公開している理由の半分以上は、クラウドでのデータ分散以上の意味はない。残り半分弱は、多くの人達の写真を観ることで得られた喜びを他の方ももしかしたら僕の写真から得られる人もいるかもしれないという程度の理由による。世界には多様な嗜好と多様な人々がいるのだから。
|
KONICA HEXAR, KODAK GOLD 200, 現像:桜カメラ |