2018/11/28

Perkeo IIと蔓草、そしてなぜ僕はフィルムカメラを使うのだろう

なんとなく携帯塔の周りに囲われた有刺鉄線に這う蔓草を撮ってみた。

特に意味はない。しいて言えば、ポジを撮る時にペルケオIIできちんと距離をあわせられるかなという興味くらいなものだろう。おもしろいかといえば、正直微妙な気がする。

最近なんのためにフィルムカメラで写真を撮るのか、とか余計なことをまた考えるようになった。

正直、写真のクオリティだけを考えたら、α7の初代とかIIでも買った方がまだマシだろうと思う。コストパフォーマンスも非常に良くなったし。僕は、写真の結果だけを求めているのではなくて、写真を撮るプロセスを含めて楽しみたいのだと思う。むしろ、最近はカメラそのものへの興味が増している気がする。

口ではブツブツ文句を言いながら、構図を考え、フィルムをセットし、巻き上げ、露出を決め、距離を測り、シャッターをチャージし、そしてシャッターボタンをゆっくりと押す。そこでまた様々なことを考えたり感じたりしながら、フィルムを撮り終える。現像に出し、データを確認する。時にはプリントする。そして、写真を眺める。時には様々な理由で失敗写真であり、ほとんどは平凡で、きわめてまれに個人的に好きな写真だなと思う。そういったことすべてを楽しんでいる。

ただ、古いだけの歴史があるだけのカメラにも興味はない。僕にとってあくまでカメラは実用品でしかないからだ。機械的な魅力に惹かれることはあっても、それはすべて写真を撮るための道具に過ぎない。そう強く思わないと、どんどんカメラが増えそうで困ったことではある。

そして、そういった時に感じるのはMINOLTA TC-1の意外な能力だ。小型、軽量、露出優先オートなので非常に手軽に日常的に持ち歩き、躊躇なく写真を撮る気になる。それはある意味で、現代のコンデジやスマートフォンのカメラにも通じる手軽さだ。僕が今年撮った写真を自分で10枚選んでみたが、僕にとってもきわめて意外なことにそのうちの7枚がTC-1により撮影したものだった。もちろん、色んな理由があるだろうけれども、それなりのクオリティの写真が、非常に手軽に、そしていつでもどこでも持ち運ぶ気になる大きさ、重さで撮ることができるから、だろう。ないカメラで撮ることはできないのだ。

ペルケオIIの場合は、いつでもどこへでも持ち運ぶ気にはなるし、できあがりも満足する場合が結構多いけれども、事前の準備がめんどくさくていつでも撮る気にはならない。めんどくさい作業自体が楽しいのだけれど、撮りたいと思ったその瞬間に撮ることはできない。写真を撮ることだけを考えたら、高級コンデジの1台も持ち歩くべきなのだろうとは思う。あるいは、もうちょっとマシなカメラ機能をもったスマートフォンとか。いっそ、α7系の初期モデルでも買うか、とかまったく無関係に思ったりもする。いったい、僕は何がしたいんだろうねえ。

Perkeo II, PROVIA 100F, 現像:プロラボサービスnet

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